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by fana_nikkei

カテゴリ: ●アルゼンチン日本人移民史( 4 )

 以下は、FANAアルゼンチン日本人移民史編纂委員会が出版した「アルゼンチン日本人移民史」戦前編・戦後編を要約したものです。
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第1章
 移民という複雑な現象は、その取り巻かれている歴史的な背景を抜きにしては考えられない。うちの爺ちゃん、または父の場合、貧しかった理由で、あるいは、可能性のある新天地を求めて移住して来た、といわれるが、それは単なる個人的な、偶然的な出来事に聞こえる。しかし、偶然は多くの場合、知らないからそう言えるのであって、きちんとそれをたどってみると、その時代に多くの人が似た状況に置かれ、同じ運命をたどっていることが分かる。
 アルゼンチンにおける最初の日本人の足跡をたどると、16世紀にさかのぼる。新大陸発見の時代が終り、ヨーロッパの諸列強国が新大陸を制覇しようとした時代だった。
史実によると、“日本人種”とみなされる者が1596年に当地を踏み、コルドバの町で奴隷として売られている。この年、巨大な力を持つ豊臣秀吉が第二の朝鮮出兵を命じ多くの朝鮮人を死に追いやり、また、海の向こうで多くの日本人の運命が惨めに捨て去られた。
 当時、アルゼンチン領土まで含むペルー副王領において、フランシスコ・ハポンだけでなく、17世紀初頭、20人ほどの“日本人種土人”が新世界に連れて来られ、ペルーのリマに“奴隷”として住んでいた。
 日本が鎖国して約250年のち、徳川幕府の末期頃、最初の公式旅券発行を受けたのは、旅芸人の一行だった。まさに明治時代初期、軽業師一行がブエノスアイレスで興行している。
アルゼンチンに定住した最初の日本人移民は、1886年に着いた牧野金蔵だといわれている。密航による入国で、以前ハポンが奴隷として売られ、自由の身になったコルドバに住みついた。当時アルゼンチンは国体を整えている時期で、その柱になったのが1880年に制定された移民法で、広い無人の国土に多くの移民の導入を図っていた。しかし、法令そのものと上層階級が目論んでいたものは、ヨーロッパ移民、それも北欧系移民の奨励だった。
 このあと、榛葉贇雄、鳥海忠次郎という二少年が、アルゼンチン海軍の遠洋練習艦サルミエント号で上陸した。友好親善条約が1898年に締結されたあと、初めての移住者だった。鳥海の場合は全く行方がわからず、また榛葉は日本人社会の指導的な人物になった。
その後1904年初頭、二人の大学卒業生が日本政府から派遣されてきた。古川大斧と丸井三次郎で、これは政府派遣海外実習生の始まりである。
さらに翌年、滝波文平が到着したが、日本人貿易・雑貨商の始まりである。滝波は純粋な意味の移民ではなく、神戸に本店を置き、商売の本拠地にしていた。ただ、その子孫はブエノスアイレスで生まれ、そこに住んでいた。
 こうして、アルゼンチンにおける日本人の移住は、基本的に個人、自由渡航であり、ブラジルやペルーのような政府主導の集団計画移住とは異なっていた。こうしたことで、移民元年を密航できた牧野の入国年にするか正式入国の榛葉にするか、尺度が違ってくる。


e0101447_5433355.jpgフランシスコ・ハポン奴隷の売買契約書
* 1596年7月16日付の奴隷売買契約証書によると,「コルドバ在住の奴隷商人D・ロッペス・デ・リスボアが,M・デ・ポーラスという神父へ,日本州出身の日本人種,名はフランシスコ・ハポン(21歳),戦利品(捕虜)で担保なし,人税なしの奴隷を800ペソで売る,また,買い主もこの価格で満足して買い取る」とある。これに対しフランシスコ・ハポンは「自分は奴隷として売買される理由はない。従って自由を要求するものである」として裁判へ起訴し,二年後裁判に勝ち,自由の身になったとされる。(「1588年から1610年までのコルドバにおける奴隷売買状態」C・アサドゥリアン著,コルドバ大学発行,1965年)この奴隷売買契約証と裁判起訴状などの原文は,コルドバ州立古文書館に保管されている。


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「サツマ」座の宣伝ポスター
* 曲芸団「サツマ」一座が(旧)コロン劇場に出演し,1873年3月8日(土)付きの公演ポスター(国立演劇博物館)。この劇場は,現在の名高いコロン劇場ではなく,大統領庁の斜め横にある現在ナシオン銀行本店が占めている場所にあり,その頃,サーカス,演劇,歌舞,曲芸などを取り揃えた大衆的な劇場だった。明治維新前後,日本の芸人が相当に海外へ出て行き,1872年には岩倉具視遣欧使節団一行がニューヨークで「サツマ」と称する軽業師数名に出会ったと伝えられている。その「サツマ」一座が南下して,翌年ブエノスアイレスで出演したことも考えられる。



e0101447_5501961.jpg定着移民第一号の牧野金蔵
* 機関士・牧野金蔵とその英国人上司(在亜日本人会所蔵資料)。アルゼンチンに定住した牧野金蔵の入国年は1886(明治19)年で,それがこの国における日本人移民の発端と規定されている。神奈川県出身で,海外雄飛の志を抱いた牧野は20歳頃,英国船の乗組員として渡航し,ブエノスアイレス州海岸で上陸した。その後,地中州のコルドバに赴き,当時アルゼンチンで発達し始めていた英国系鉄道会社セントラル線の機関士として退職するまで勤めた。英語名のマイケル・キングと改名した。


e0101447_55437.jpg牧野金蔵の鉄道組合証
* 鉄道組合証(在亜日本人会所蔵資料)では,会員になったのは1900(明治33)年で,氏名はミゲル・キングと名乗っている。1892年にA・ロドリゲスと結婚し,5人の子供に恵まれた彼は1928年に没した。晩年,日本語は極めて不充分で,「永嶺(公使館書記官)がコルドバに行かれた時,日本に一人の兄が居るが,一度帰ってみたいと故郷恋しさの涙を浮かべながら語っていた由。一昨年その妻女が亡くなって以来,とみに元気も衰えていると聞いている」。(「亞爾然丁時報」1927年3月12日号)


e0101447_1325468.jpg正式移民第一号の榛葉贇雄* 1900(明治33)年9月30日,アルゼンチンの練習艦サルミエント号は第一回世界巡航を終え,ブエノスアイレス港に着いたとき,士官たちと日本人の若者が二人いた。16歳の榛葉贇雄(しんや・よしお)と13歳の鳥海忠次郎(前列左端と右より5人目)だったが,アルゼンチンと日本は正式な外交関係を開始したばかりであり,その意味でこの二人は国交樹立後初めての日本人移住者だった。二年前,両国は「修好通商航海条約」を締結していた。(写真は亜国国立資料保存館所蔵)


e0101447_1335885.jpg航海中の明治の青年* 航海中,ある港で着物姿の鳥海忠次郎(左)と榛葉贇雄(国立資料保存館)。榛葉はその後,日系社会で大活躍し,両国の文化交流に貢献するが,横浜市出身の鳥海忠次郎について伝える資料はほとんどない。「鳥海は当地到着以来,暫くは士官の召使いのようなことをしていたが,先月以来海軍の医大監某氏の世話でアルゼンチン海軍の薬剤士官見習いとなり,毎月64円の手当を受けているとのことで,着ている服も極めて立派にしていた。日本語よりスペイン語の方が達者になり,身体も至極健康とのことである。」(明治35年11月5日付の在亜国弁理公使・大越成徳の報告書より要約)


e0101447_1355483.jpg葉贇雄新婚夫婦* 1908年10月21日,訪日した新。佐賀県東拓浦郡湊村(現在の唐津市)出身の榛葉贇雄は,来亜2年目から日本の新聞に紹介する。向学心が人一倍強く,仕事のかたわらブエノスアイレス中学に通い始め,後ブエノスアイレス大学法学部に進んだ。その後,英国系女性のラウラ・ハドソンと結婚した。このラウラは,博物学者として「遥かな国,遠い昔」など日本語にも訳されている本の作者として知られるウイリアム(亜国名ギジェルモ)ハドソンの妹だった。(Las Huellas de Guillermo Enrique Hudson)







e0101447_1371053.jpg日本アルゼンチン修好通商航海条約* 1897年,北米ワシントンにおいて日本とアルゼンチンとの条約をめぐる接触がはじまり,翌1898年2月3日,双方の駐米外交公館長であった星享公使とM・ガルシーア・メロウ公使が平等の修好通商航海条約に署名した。1901年,両国より正式に批准された。1895年11月パリでブラジルとの間に修好通商航海条約が締結され,ついで1897年9月25日にチリとの修好通商航海条約が締結されるにおよび日本と南米諸国との交流は徐々にその道を開きつつあった。


e0101447_1375548.jpg越成徳初代公使* 1901年,大越成徳公使,家族と共にスプレディッド・ホテル前にて(亜爾然丁時報1939年新年号より)。正式な外交関係が始まった後,当時までブラジル駐在公使だった大越成徳は,1902年よりアルゼンチン初代公使も兼ねるようになった。ロンドン駐在領事の経験もあり,英国人と結婚していた同公使は,アルゼンチンについて日本外務省に詳細な報告書を送っている。「これまでの南米諸国を視察に来た日本人が三人あったが,契約移民を輸送することだけを目的にしていたため土地売買などには全く注意しなかった」ことを嘆く(1903)。


e0101447_1383286.jpg軍艦「春日」(「Rivadavia」リバダビア)* 日本に譲渡された装甲巡洋艦2艦の一つ「リバダビア」,その後「春日」と改名される(M・ドメック・ガルシーア著「日本海海戦 アルゼンチン観戦武官の記録」より)。アルゼンチンは,チリとの間で国境紛争が起こったためイタリアに発注したものだったが,1902年の平和協定により必要としなくなった。ロシアも日本との戦争に備え,その取得を希望したが,結局,1904年1月,日本に譲られ,日露戦争で両艦とも目覚しい活躍をした。


e0101447_1392949.jpg軍艦「日進」(「Moreno」モレーノ)* 日本に譲渡された装甲巡洋艦2艦の一つ「モレーノ」(「日進」と改名)。排水量8,000トン,全長105メートル,最高速力20ノットを誇る各艦が横須賀に入港した1904年2月,日露戦争の火ぶたは既に切られていた。旅順港外の海戦に参加した「日進」は最も破損を受けた艦の内の1隻だった。アルゼンチン政府に任命され観戦武官としてこの戦争に立ち会ったドメック・ガルシーア提督(当時,海軍大佐)はその後,非常な親日家になり1930年代,榛葉と「亜日文化協会」を設立した。


e0101447_1401156.jpg日本農商務省の海外実業練習生来亜* 1904年2月11日,日本品輸入商J. R. バージェに招待され,紀元節を祝う鳥海忠次郎,古川大斧,榛葉贇雄,丸井三次郎。古川と丸井は,東京外国語出身で農商務省の海外実業練習生としてアルゼンチンに到着したばかりだった。古川大斧は東京と大阪にある「大阪新報」と,「中央公論」の特派員も兼ねていた。Caras y Caretas誌第28号では,アルゼンチンの商業を研究するため派遣された二人は,洗練された教養と知性に富む青年だと紹介されている。






e0101447_1423930.jpg“丸井氏の日本詩”*“丸井氏の日本詩”として記載された三次郎(舟葉)の直筆。丸井はその後,商業事務所を開設し,1915年4月,謄写版のブエノスアイレス週報を創刊することでアルゼンチンにおける邦字新聞創立の元祖となる。また,1919年5月に「在亜日本人労働者連合組合」結成の際,中心となって活躍した人物である。






e0101447_1433960.jpg日本的な雰囲気* Caras y Caretas誌(1905年11月11日371号)に出た記事。上の写真はブエノスアイレスのある上流家庭の娘の誕生日祝いが日本的な雰囲気づくりの中で行なわれた。下は,数少ない在留日本人が,アルゼンチン人と交え天長節を祝う場面。場所はルシオ家,参加者には榛葉贇雄,丸井三次郎,古川大斧,滝波文平,ハギヤ,坪田静人,塩川伊四郎,小松慶也,日本名誉領事を努めていた英国人のシェファードらだとある。





e0101447_1442644.jpg東郷元帥,東京に帰る* Caras y Caretas誌(1906年1月6日379号)が報じた東郷元帥が東京に入り,皇居に向かう場面。小国日本が,大国ロシアに対する勝利から一躍認識され,少数の邦人を喜ばせた。例えば,金蔵牧野がコルドバに来た時,日本人を見たことのない現地人はその容貌がボリビアの先住民種族に似ているのでコージャという仇名をつけたぐらいだったが,日露戦争が始まると,次第に日本の存在が分かり,彼も戦勝の度毎に友人を呼び,ことに旅順陥落の報が新聞に出た時は友人知人が押しかけてきて大祝賀会を催し,一晩飲み明かしたといわれている。





e0101447_1501099.jpg日本貿易の始まり「トウゴウ商店」* ブエノスアイレス市内目抜き通りのフロリダ街664番地にあった「Casa Togo」商店福井県大野市出身で神戸を本拠点にし,アルゼンチンで安定した営業を行なった最初の日本人である滝波文平は,ヨーロッパ経由1905年にアルゼンチンに着いているが,従業員の坪田静仁も同伴していた。日用雑貨に加え日本製絹物や陶器,漆器類などの販売を始める。彼らの着いた8月21日を,在亜日本商工会議所は日本アルゼンチン通商の開始の日と規定している。






e0101447_1504982.jpg「トウゴウ商店」の展示* 1927年,日露戦争の英雄の名に因んだ「トウゴウ商店」の展示(滝波アントニオ氏提供)。アルゼンチンに上陸した後,隣国ウルグアイの首都モンテビデオにも同支店を開き,坪田をそこの責任者に置く。さらに,ブラジルのサンパウロにも支店を開き,別の日本人をそこに配置する。坪田にブエノスアイレス支店も兼任させて文平自身は再び欧州航路で神戸へ戻った。文平は1950年80歳で亡くなるまで,最初の航海も入れ計8回アルゼンチンを訪れたが,1930年から長男文夫をアルゼンチンに送った。


e0101447_1513916.jpg杉村公使の来亜* 明治39(1906)年1月,杉村濬(ふかし)弁理公使(在ブラジル兼任)が来亜した際,ローヤル・ホテルでの記念撮影(賀集九平著「アルゼンチン同胞五十年史」より)。前列左より3人目,杉村公使,在亜日本名誉領事のH・シェファード(アルゼンチン在住英国人),榛葉贇雄,角田利太郎。前列左より,古川大斧,鶴島庄太郎(柔道家の福岡庄太郎のことか),山崎彦三郎,塩川伊四郎,滝波文平,一人飛んで坪田静人,丸井三次郎などの初期日本人在住者。


e0101447_1524458.jpg杉村公使の風刺画* アルゼンチンにおける初代の日本公館長,大越成徳・弁理公使に代わり1904年12月3日,ブラジルに公館を置いて兼任する駐在公使として,杉村濬(ふかし)が任命され,1906年1月ブエノスアイレスにおいて信任状を奉呈したが,同年在任中死去した。写真はCaras y Caretas誌1906年1月6日第379号に出た新公使の風刺画。「日本の公使を紹介できることが大きな喜びです」,と。こうして,評判のよい総合雑誌をはじめ,当時のマスコミは日本に対して好意的に報道した。








e0101447_1544156.jpg牧野金蔵,大野与三松* 1908年,牧野金蔵一家,大野与三松。前列右より牧野金蔵,その二男ロージャ,妻のアマリア,長男アルマンド。後列右より大野,堀某(らぷらた報知社編「在アルゼンチン日系人録」)。大野与三松は,慶応大学を終え1907年にアルゼンチンに到着,コルドバ駅に就職していた。さらに,ブエノスアイレス市の建築会社に入り地下鉄工事(現在の地下鉄A線)に参加したその後,太平洋に面するオステンデの南埠頭工事に次席技師,製図者として勤めた。



e0101447_1552119.jpg各国からアルゼンチンの建国百年祭に* アルゼンチン建国百年祭に参加した世界各国代表者の似顔。左に,日置益公使(Caras y Caretas誌,1910年6月4日第609号)。1910年5月25日,新興国として注目されてきたアルゼンチンは,盛大に建国百年を祝ったが,同年チリに公使館が開設されてアルゼンチン兼任の公使となった日置は,その後,各地を視察し,移民導入の可能性をさぐっている。外務省に提出した報告書に日本人の活躍状況にも触れ,在留する日本人労働者は約300人だとした。また,日本人は土地の労働者と混じり合うことも同化することもなく,同国人だけ固まってしまうこと,休日も休まず夜業も嫌がらない点から,これが将来土地の労働者の反発を買い,社会問題となる恐れは十分ある,と述べている。


e0101447_1573366.jpg軍艦「生駒」の陸船体隊員たち* 建国百年祭に参加した軍艦「生駒」陸船体隊員たち。800名が出席した亜国海軍主催の歓迎会(Caras y Caretas誌1910年6月4日第609号)。5月25日の観兵式にマージョ広場において国家の最上層部と外国からの来賓の前で威風堂々と進行し,群集の歓呼を浴びた。1900年初頭からアルゼンチンは,ヨーロッパへの農作物供給国として確固たる地位を築いていた頃で,製糖工場を作ったり鉄道を敷いたりラテンアメリカ諸国の中で最も早く工業化した国だった。


第2章はこちら
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by fana_nikkei | 2007-09-29 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史
第2章

  日本人移民がアルゼンチンに入ってくる流れは大体、ブラジル、ペルーからの転住者によってつくられたが、これはボリビア、チリ-を経由したものだった。これは戦後も同じように、ボリビア、パラグアイからの転住者の流れがあった。
 すでに1908年の「笠戸丸組」の転住者の中には沖縄県出身者も含まれていた関係から、その年がアルゼンチンにおける沖縄移民元年となっている。
 ブラジルの日本人移民第一航海の「笠戸丸」船上で、アルゼンチンへ行く何人かの人たちが、その国には将来性があるとそそのかしていた。また、入植地を脱走してサンパウロにたどりついた人たちは、先にアルゼンチンへ行った人たちから朗報を受け取り、さらに南へと転住がつづいた。
 「笠戸丸」以後の移民グループも、数においては劣るが、やはり、1910年6月29日着の旅順丸組の転住者もかなりあった。
 それでも、アルゼンチンからサンパウロに戻った人たちも少なくなく、第二航海組の転住者の数は減少した。すでに当時、マットグロッソ州のプエルト・エスペランサから始まるブラジル・ノロエステ鉄道線工事は開始されていて、アルゼンチンにも鉄道工夫募集に来た。
 ペルーに入った日本人移民のアルゼンチン転住者も多かった。ペルー移民は1899年、790人の契約移民が森田移民会社のチャーター船「佐倉丸」で横浜から出港したときにはじまる。男たちは砂糖キビ耕地で働くことになっていた。しかし、多くの人が気候風土、労働条件や食物と馴染めず死亡者が続出した。また、雇主とのトラブルで耕地から逃亡する人たちが相次いだ。
1910年、アンデス横断鉄道國際トンネルが完成すると、太平洋岸ルートで来る移民は、チリのパルパライソ経由でアルゼンチンに入国した。これと同じようにペルーから入国する人たちもチリ経由で入った。パスポートのコントロールも厳しくなく、日本人たちはペルー行きの旅券で何の支障もなくアルゼンチンに入国出来た。
 しかし、快適で滞なく出来るこうした旅行も突然、徒歩で、またはロバに乗って大変苦労する旅行になることもあった。冬期、予告なしに運行中止となる。そこでバルパライソに戻って宿泊するだけの経済的余裕のない日本人移民は、そのまま旅をつづけるほかなかった。  


e0101447_3141100.jpg沖縄県移民の草分け、知念政実
*知念政実(左)と同伴者、やすまさ(右)(「アルゼンチンのうちなーんちゅ80年史」在亜沖縄県人連合会)。沖縄県首里の出身で、同県今帰仁村出身の仲里新忠らと笠戸丸で1908年にブラジルに渡り、同年にアルゼンチンに転住した。


e0101447_322926.jpgロサリオの日本人精糖工場員
* 1910年、サンタ・フェ州、パラナー河沿いのロサリオ市にあった精糖工場で就労していたブラジルからの転住者たち(「在アルゼンチン日系人録」らぷらた報知社)。アルゼンチン公使だった日置益(1910年任命)の報告によると、この精糖工場では常時140人から150人が働いており、雇用者は日本人労働者に満足し、非日系人からの苦情もなかったという。


e0101447_33641.jpgロサリオの沖縄出身移民
* 1910年6月19日、サンタ・フェ州ロサリオ市にて。左より、宮城仁助、比嘉加那、安谷屋与元、仲井間宗昌(らぷらた報知社編「在アルゼンチン日系人録」)。1908年より、隣国のブラジルやペルーなどからの転住者はアルゼンチンにおける日本人人口を加速させて。



e0101447_35796.jpg生まれたばかりの新垣清松(在亜日本人会資料)
* 1910年12月8日、ブエノスアイレス市のボカ地区サンタ・マリア街に生まれた清松は、ブラジル第一回移民780人(779人や781人など人数についてはいくつかの異説がある)を乗せた笠戸丸で渡航した新垣松とヨシの長男だった。











e0101447_353659.jpgフフイ州レデスマでの誕生
* 新垣松とヨシの次男、清善の戸籍抄本の一部。フフイ州のレデスマで生まれたとある。ボリビアとの国境に位置する同州に大勢の日本人が就労に出向いた。経営者は先住民就労者を日本人就労者に替えようとしていた。












e0101447_361234.jpgノロエステ鉄道工事にて
* 1910年、ブラジルのマット・グロッソ州のノロエステ(北西)鉄道工事の現場(松尾カタリーナ氏提供)。この鉄道敷設はポルト・エスペランサから始められ、大勢の工夫を必要とした。サンパウロ方面から工夫を送るよりも、工夫をラ・プラタ河の船にのせてポルト・エスペランサへ送るほうが便利だった。












e0101447_372481.jpgマット・グロッソの“アントニオ”マツオ
*ノロエステ鉄道工事、マット・グロッソ州コルンバにて(1910年)。「鉄道検査官のアントニオ・マツオ」と書かれている(松尾カタリーナ氏提供)。松尾は、1880年に福岡県の農家の長男として生まれ、1903年にイギリス船デュー・オブ・ファイア号でペルーに渡り、サンタ・バルバラ耕地で働いた。



e0101447_317342.jpg開通記念写真
* 1910年、鉄道工事の合間に。機関車の前左より2人目が松尾釼蔵。釼蔵の子供たちエンリケとカタリーナによると、ペルーからチリに渡り、数人の日本人と一緒に船に乗り、マゼラン海峡、ブエノス・アイレスをへてブラジルのサントスにたどり着いた。スペイン語と英語の知識があった松尾は日本人の鉄道工夫団の通訳兼監督に採用されたという。



e0101447_3174015.jpg無名の人々による偉業達成
* ノロエステ線鉄道工事現場で。前列右端が松尾釼蔵、後列左端が又吉全政(松尾カタリーナ氏提供)。松尾釼蔵が後年、子供たちに語ったところによれば、マット・グロッソでは猿の肉や果物を食べていたという。毒のない食料を見つけるために、先住民と一緒にジャングルのなかに食料を探しに行き鳥がついばむ様子を観察したという。



e0101447_3182625.jpgオステンデ工事にも参加
* オステンデ避暑地の工事中、エスタシオン・トウキョウ(東京駅)と呼ばれる場所で資材を降ろしている(松尾カタリーナ氏提供)。当時、二人のベルギー人がブエノスアイレス州の西海岸に高級避暑地をつくろうとしていた。オステンデという名称は、ベルギーの有名な避暑地に由来する。駅の名称からすると、多くの日本人が働いていたにちがいない。



e0101447_319958.jpgこの一枚により無名の人々は歴史に名前を残した
* バルネアリオ・オステンデ(オステンデ避暑地)社が発行した労賃明細書(1915年6月30日までの計算)。それによると松尾釼蔵が日本人労働者の代表で、それ以外に働いていた日本人はアリハシ・ホサ、グンペ・クボテラ、ニシハラ・ズニチ、ゼンペ・ホシタ、オリタ・キエモンである。その後、松尾は、ブエノスアイレス州ヘネラル・ベルグラーノの広大な土地で野菜栽培に従事した。








e0101447_3195473.jpgオステンデの大野与三松
* この勤務証明書から分かるように、大野与三松はオステンデ工事に携わった日本人の一人だった。自然との困難な闘いの後、オステンデの開会式は1913年4月に行われたが、第一次世界大戦の影響か、二人のベルギー人はアルゼンチンを去った。残ったのは埠頭の一部と、八十部屋をもつ「テルマス・ホテル」のみで、その後、何十年間も放置されたままになった。








e0101447_3203484.jpgブラジルの原生林で
* 笠戸丸移民以後も、少なからぬ日本人がブラジルからアルゼンチンに渡ってきた。写真は、1912年に厳島丸で渡航しビリグイ移住地に入った移民。原生林の中で大自然と闘った(貝原政治氏提供)。




e0101447_3214583.jpg原生林で生活を築
*ビリグイ移住地の入植者の一人、貝原儀八は、まず自分の家を建てることからはじめた(貝原政治氏提供)。佐賀県出身の貝原は、26歳で妻と二歳の娘とともにブラジルに渡った。他に佐賀県出身の18家族が一緒だった。



e0101447_3224081.jpgあらゆることに苦労する*水は、生きるうえで不可欠であり、……









e0101447_3232675.jpg自然は最大の味方でもあり最大の敵でもあった……うまく利用できればたくさんの魚をもたらした。しかし、儀八の息子、政治によると、幾年もかけて拓いたコーヒー園が一夜の降霜で全滅したという。







e0101447_324377.jpgブラジルからアルゼンチンへ
* 貝原儀八と二歳半になる息子、政治。1922年、10年間の苦闘の後、貝原たちはアルゼンチンに転住した。カフェ店の草分けだった同姓の従兄弟とおなじく、儀八は邦人2名と共同でエントレ・リオス州コンコルディア市にてカフェ店を開いた。











e0101447_3244133.jpgペルーからアルゼンチンへ
* 1918年に死没した小波津次良の墓。1878年、沖縄県西原に生まれ、盛岡移民会社の厳島丸にて、1908年末にペルーのカヤオ港に着き、カニェテ耕地に入った。彼についてはほとんど知られていない。「あなたを忍んで 妻より」という横文字の献辞がおぼろげにみえる。(「西原町の移民概要」西原町教育委員会編集、2001年発行)










e0101447_3253435.jpg 1919年1月16日に発行された泉川亀千代(17歳)の旅券の一部。
*神谷松に呼び寄せられたとある。亀千代の息子リカルドによると、実際に呼び寄せの手配をしたのは亀千代の叔父の仁要であった。「祖父、亀の弟に当る仁要はすでにアルゼンチンにいて、ラ・ネグラ冷凍工場で働いていた。父を呼び寄せてから、沖縄に帰り、向こうで亡くなった」とリカルドは語る。








e0101447_326444.jpg妻を呼び寄せて
* 泉川亀千代は、まずラ・ネグラ冷凍工場で就労し、「その後、バイア・ブランカ市近くにあるプンタ・アルタでカフェ店を経営していた。そのとき、母のアサを呼んだ。母は中城村出身で旧姓は安里だったが、沖縄最後の王朝、尚家の子孫だった」と、誇らしげにリカルドは語った。










e0101447_3373862.jpg横浜港から世界へ
* 1919年4月4日、安洋丸が横浜港を出る光景(広瀬美恵子氏提供)。同年5月22日にカヤオ港に着いた。







e0101447_3383169.jpg安洋丸の船客たち* 東洋汽船社安洋丸の三等客として困難な旅に備えて(広瀬美恵子氏提供)。









e0101447_341365.jpg甲板を歩いて* 広瀬美恵子氏提供。
















e0101447_3414477.jpg食事の準備を手伝う* 広瀬美恵子氏提供。











e0101447_342201.jpg食事時間* 広瀬美恵子氏提供。










e0101447_3432476.jpg作業または雑談しながら旅がつづく* 広瀬美恵子氏提供。









e0101447_3441850.jpg体を鍛えながら* 広瀬美恵子氏提供。











e0101447_3445280.jpgバルパライソ港* チリのバルパライソ港の全景。多くの日本人がペルーのカヤオ港をへて、アルゼンチンに渡るため、ここを通った(広瀬美恵子氏提供)。



e0101447_352352.jpgアンデス越え
* 1919年の冬初め、広島県出身の広瀬寛治ら一行のアンデス越え。当時、汽車不通のため、移住者は徒歩、ラバにたより、海抜4,200メートルの山脈を越えなければならなかった。






e0101447_3524395.jpg愕然とした
* 三重県出身の服部定雄も1915年に同じ経験をしたが、「ちゃんと切符を売ってくれ、出発になっても何ひとつ言われもしなかったので、まさか途中でストップを食らって、ほうり出されるとは思ってもみなかった。汽車に乗った時は、このまま座っていれば無事メンドーサに着くと信じていた。ロス・アンデスまで来たところで駅員がやって来た。この先、雪で不通、開通の見込みは不明と聞かされ愕然とした」と証言した。

e0101447_354646.jpg寒さ、疲労など耐え忍ぶ
* 寒さ、疲労、飢え、恐ろしさに見舞われた旅人は、アルゼンチン側に渡るため、励まし合い、耐え忍んだ(広瀬美恵子氏提供)。








第3章はこちら








   
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by fana_nikkei | 2007-09-28 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史
第3章 

1914年から1920年代半ばまで、職業では工場労働、家庭奉公が多かった。不安定な時期で日本人は職業を転々としていた。
1920年代中頃をすぎると、洗濯店、フェー店、郊外では野菜,花卉栽培が増加したが、結局これらの職業が戦前の日本人社会で目立つものになった。
 日本人移民が増えはじめた頃,ブエノスアイレスはすでに大都会だった。リアチュエロに近い場末のボカ、バラッカスという限られた界隈のコンベンティ-ジョ(長屋)に住み込み、そこから近くの工場に働きに出た。
 工場労働は友人の紹介,あるいは,自分が歩き回って探した。早いうちに起き、そして工場の前で長い列に加わった。採用の選択は工場の現場監督で、日本人が多くの場合優先的に選ばれた。いつも「今仕事ありませんか?」という文句を繰り返していた。
 「毎日毎日当てどもなく歩き回り,工場の前で施し物を求める乞食のように立ち止った。大きな工場だけでなく、汚れた黒い水のながれるリアチュロ運河近くの工場,プエンテ・アルシ-ナの端にある工場などを歩き回った。夕方になると歩き疲れた足を引きづって,陰鬱な気持になって長屋に戻るのだった」、と1923年に移住した仲宗根文盛は記している。
 家庭奉公が,戦前初期アルゼンチンに来た日本人移民の二番目に多い職業だった。比較的に他の民族社会と異なり,家庭で働いた人は多かった。古川大斧は1904年に農商務省海外実業練習生として来たが、「理由は分からないが、何故か家庭奉公は日本人に取っ付き易い仕事だった」、と1917年に記している。
1920年代に入ると日本人の間で自動車運転手の仕事が流行した。1910年代はまだ日本人運転手は数えるほどしかいなくて、富豪のお抱え運転手が多かったが,1920年代に入るとタクシー運転手が急増した。初期の運転手として,中原栄吉、山口喜代志、秋葉新一、武田敏美などがいた。そのほか徳元佐助、新垣亀が1915年にタクシー業を始めている。徳元はバセーナ製鉄工場社長の運転手として制服、制帽に皮のゲートルをつけて働いていた。1919年1月の「悲劇の一週間」の折、フロントガラスを割られて命の縮む思いをした逸話がある。


e0101447_4415074.jpgアルパルガタス社の全景
* 布靴工場のアルパルガタス(アルゼンチン国立総合資料保存館)。ボカ地区のパトリシオス街700番にあった。19世紀末に設立された英国人経営の工場で、紡績部門と製靴部門があった。近くの長屋に住む多くの日本人女性にとって最初の勤め先になった。夫が仕事を見つけるまで家計を支えた。


アルパルガタス工場の女工たちe0101447_4485857.jpg
* 笠戸丸移民で1908年にブラジルからアルゼンチンに転住した移民たちはすぐこの工場で働いた。経営者から喜ばれ、つねに日本人が働いていたが、第二次世界大戦により一部の人を除いてほとんどの日本人が解雇されてしまった。アルゼンチンの日系人研究者ラウモニエルの研究では1918年から1926年にかけて176人の日本人(95%以上が女性)がアルパルガタス工場で働いていたと推定されている。


e0101447_513599.jpgバセーナ製鉄工場に勤めた
  日本人女性たち

* 1870年に創立された製鉄工場で、コチャバンバ街3001番から3099番あたりにあった。またバラッカス地区のペピリ街とアルコルタ街のかどに作業倉庫をもっていた。1918年に昇降機操作係として就職した本田伊吉によると、この頃、男女あわせて60人から70人ほどの日本人が働いていたというが、1919年のブエノス・アイレス週報に載っている広告には「男女300人の日本人が働いています」「日本人男性及び女性雇い入れます」と記されている。この工場は「悲劇の一週間」と呼ばれる労働紛争の舞台となった。


e0101447_534860.jpgローチャ鉄工場の日本人
* ローチャ街1269番にあったこの鉄工場の正式名は不明だが、工場長を杉原隆次が勤めていたので、日本人たちは「ローチャ鉄工場」とか「杉原鉄工場」と呼んでいた。そこでは馬のクツワや蹄鉄などをクズ鉄から作っていた。杉原は1888年愛知県に生まれ、ベルギーで結婚、1911年にアルゼンチンに来た。その頃、この鉄工場の経営は傾いていたが、杉原の努力により復活した。杉原は後に独立して鉄工場を営んだ。


e0101447_542679.jpg 在亜日本人労働者組合
* 1919年、ローチャ鉄工場を事務所にして、杉原隆治や丸井三次郎を中心に「在亜日本人労働者組合」が設立された。不穏な労働者の動きに先手を打って対応しようとしたのか、1919年にローチャ鉄工場は給料アップと8時間労働の実施を決定した。その後、1921年に在亜日本人会の発展に協力するため解散した。


e0101447_551147.jpgゴウリンスキ工場の広告
* ブエノスアイレス週報の1919年新年号に掲載されたゴウリンスキ工場の広告。同工場は船舶修理などを請負う会社で、他の工場と同様、日本人雇用に関心を示していた。笠戸丸移民で1909年に転住してきた鹿児島県出身の有水藤太郎は、カンカン虫といわれるこの仕事をはじめ、多くの日本人に職を斡旋した。



e0101447_5113288.jpg求職広告
* 1914年5月10日から16日までのラ・ナシオン紙に掲載された日本人の求職広告。慣れない異国にやってきた日本人が家庭奉公の職を求めたのは、衣食住を確保するとともに、言葉や習慣を身につけるためでもあった。日本人の家庭奉公人は、親切かつ清潔で教養があると評判された。








e0101447_801391.jpg 高倉謙運転手
* 1919年初めに来亜した茨城県出身の高倉謙は、家庭奉公をしてから裁判官のお抱え運転手になった(宮地ルミ氏提供)。「家庭奉公は一年半くらいしましたね。だいぶ言葉も分かるようになりました。でもこんな仕事は長くやれません。せいぜい三、四ヵ月くらいがいいとこで、すぐ替りたいんです。当時「家庭奉公やります」と出したら、むこうから迎えに来てくれるほど、仕事はたくさんあったんです」と後年の高倉が語っている。


e0101447_5134997.jpg 運転手の中間武右衛門
* タクシー運転手をする前の中間武右衛門(中間フーリア氏提供)。鹿児島県出身の中間は1920年代半ば、古谷重綱公使つきの運転手をした。
 1910年代末期から運転手として働く日本人が多くなり、1920年に、中原栄吉を会長に在亜日本人自動車運転手協会が設立された。
 中原は1908年ペルーに渡航し、ボリビアをへて1911年にアルゼンチンに来ていた。


運転手協会の機関誌「わだち」e0101447_515055.jpg
* 1922年5月5日号の運転手協会の機関誌「わだち」の表・裏表紙。1928年に運転手協会がキルメス河畔にピクニックに行った時には、数十台の高級大型乗用車がラ・プラタ街道を走り、≪道行く外人すら歩みを止めて次から次へと続く自動車を驚異の眼をもって「オートロ・ハポネス」(またまた日本人だ)と呼んでいた≫という(「わだち」第26号1928年)。


e0101447_812575.jpg2番線の運転手
* 1933年の光景(岩岡リカルド氏提供)。タクシーに転向する前、バス運転手だった岩岡勇(中列左より2人目)。その左は兄の嘉一、左より3人目北岡ゆたか、4人目岩尾パブロ、5人目岩尾浅松、7人目福田学。前列左より2人目藤田正雄。後列左より1人目岩尾フーリオ、2人目増田某。「我々がこの協会なるものを設けてタクシー業の盛んな頃は各ガレージに50台のタクシーに自家用の自動車が5、6台しか見えなかったが、現今ではタクシー5台に自家用が50台もいるので、タクシー同業者をして昔のような景気、また多数の会員が集まることは到底困難であろう」(「わだち」第35号1932年)。


e0101447_8154268.jpgゑひめ屋の広告
* ブエノスアイレス週報1919年各号に掲載されたゑひめ屋の広告。ブラジルから転住してきた愛媛県人の森和太郎が1913年にはじめた。エルナンダリアス街1613番にあった。二階建てで、宿泊だけでなく食事も出していた。1919年の宿泊料は一ヶ月三食付で30ペソという記録が残っている。森和太郎は1926年にゑひめ屋を橋本又市に譲って帰国した。

e0101447_8204362.jpg 南米倶楽部の広告
* 経営者や名前は何度か替わったが、1917年からこの場所に宿屋があった。日本人たちは「パトリシオスの19番」と呼びならわしていた。最初の経営者は鹿児島県出身の山元栄治で「南米倶楽部」という名前だった。下宿業に加えて、料理屋、ビリヤード、日本語書籍の貸出しもしていた。山元は船乗りで1912年にアルゼンチンに上陸した。そのためか、日本人の船員もよく来ていたようである。また仕事斡旋人が出入りしていて工場労働や庭園師などの仕事を見つけることができた。

e0101447_824021.jpg ミカド便利舎の広告
* 1913年にアルゼンチンに来た津曲諦二が1915年に開業し、最初はパトリシオス街474番にあった。下宿業に加えて、雑誌・小説の販売、貸し本、仁丹販売などをしていた。1918年には芝原耕平の経営となり、1919年には「ミカド便利舎」という名前になっている。1919年5月には熊本重老の経営で住所はスアレス街1360番になっていた。







e0101447_8243978.jpg 森川クラブの広告
* 田中乙吉と森川与十郎の共同経営でピエドラス街873番にあった。宿泊に加えて、家庭奉公、植木職、カフェ店、鉄工場、内地農牧場就職を斡旋していた。ここは就職斡旋のほうが中心だったようである。1921年には熊本県出身の松田清市の経営になっている。1922年には「だるま亭」の名前で広告が出ていて、日本料理を出していた。だるま亭はのちにチャカブコ街770番に移転した。

e0101447_8314446.jpg 紀之国屋の広告
* イトゥサインゴー街825番で南四郎が1916年にはじめた。1918年の領事館在留届では十七人がこの住所になっていて、ほとんどが熊本県人と福島県人だった。また紀之国屋はメゾン・サツマ(横浜健吉経営)のバッラカス販売店として輸入醤油を売っていた。
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村上食料品店
* サン・パトリシオ市場のなかのエルナンダリアス街1582番にあった食料雑穀店である。
 経営者の村上清吉・万壽見兄弟は愛媛県出身で、1914年にブラジルに渡り、一年半後にアルゼンチンに転住してきた。1916年の開店で日本人の食料雑貨店の先駆けといえる。






西坂食料雑貨店e0101447_9465738.jpg
* 1922年に開店され、アウストラリア街1101番で西坂貫太が経営していた。アルゼンチンでは1914、15年頃から内職のように味噌や醤油を作って販売する人がいたが、本格的に商った人は福田鶴吉で、これで儲けて日本に帰国した。それを譲り受けたのが西坂貫太である。西坂は熊本県出身で、1914年にペルーに渡り、1918年にアルゼンチンに転住してきた。店の奥には酒・味噌・醤油の醸造所があって、四斗大樽がころがっているという壮観だった。


e0101447_10113953.jpg片山洋服店の広告
* 片山誠意の経営でチャカブコ街763番にあった。片山は岡山県出身で大阪洋服学校を卒業して1916年にアルゼンチンに来た。洋服店で働いたあと1917年に開業した。誠意は、アルゼンチン日系二世の医師の草分けとなったロベルトの父である(亜国事時1925年7月9日)。



e0101447_10155419.jpg山田商会事務所
* リバダビア大通りからラバージェ街1073番に移転したばかりの山田商会事務所(ブエノスアイレス週報1919年新年号)。
 1913年、和歌山県出身の山田惣四郎と今村政五郎兄弟により創業され、日系社会における最長の歴史をもった企業である。初期は貝ボタン、コーヒーカップなどの陶器、飾り物、その他各種日本製雑貨品を輸入し、その後、電球やボタンの製造に力を入れた。


“山田ランプは間違いありません”e0101447_10234527.jpg
* 山田商会が扱った多種多様なランプを紹介する商業用パンフレット(山田ホルへ氏提供)。
その裏面には、「“わけのわからない”ランプは電気の無駄」とし、新しい山田ランプは「世界で一番経済的」と記していた。
さらに、「ブエノスアイレス市役所が山田ランプの耐久性を証明」と付加した。


e0101447_10284598.jpg山田貝ボタンのパンフレット* 山田商会の貝ボタンを紹介するパンフレット(山田ホルへ氏提供)。貝ボタンは明治時代から日本の重要な輸出品で、開店間もない頃から山田商会の中心商品だった。他の日本企業と同様、アルゼンチンの政治変動と経済沈滞の打撃を受けた山田商会は、1999年に約90年にわたる歴史を閉じた。



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アルゼンチン生産のヤマロイド・ボタン
* 第二次大戦後アルゼンチン政府が進めた工業保護政策に沿い、山田商会はパラナー河の貝と輸入原料による貝ボタン、エクアドルから輸入した堅木を使ったナット・ボタンを製造した。さらに、新しい材質、ラクトロイドを製造するために大阪の大日本Dellul社と契約した。これは「ヤマロイド」の名称で登録され、牛乳から取れるアルゼンチン産のカゼインから製造された。








e0101447_2115590.jpg 安東定夫が着亜
* 着亜当時、21歳の安東定夫(「安東定夫のあゆみ」より)。1897年岡山県に生まれた安東は1918年にアルゼンチンに着いた。事業を幅広く多角的に進める大胆さに加え、日系社会の主要団体に貢献した人物だった。



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安東夫妻
* 1926年、安東はイソルダ・ストックと結婚した(「安東定夫のあゆみ」より)。イソルダはアルゼンチンのシルクロ・デ・ラ・プレンサ(新聞界の社交クラブ)創立者の一人でドイツ系富豪の娘だった。二人は正金銀行のパーティで知り合った。二世に育英資金を与えた安東奨学金(のちに財団に格上げ)を設けたことも忘れられない。



e0101447_227845.jpg辻商会の展示場
* 辻商会の輸入陶磁器の展示場(1937年)。左より長男のアルベルト・武一郎、甥の大嶽稔、辻峯雄、辻国男、店員(辻早苗氏提供)。1884年、長野県に生まれた辻才次郎は辻商会を立ち上げ、日本製品の品質とデザインを売り物にして中・上流階級を対象に、欧州の高級陶磁器に対抗しながら地道に販売市場を開拓していった。第二次大戦中はブラックリストに載せられて敵性財産管理委員会の干渉を受けたが、アルゼンチン資本の企業であることが認められて接収をまぬがれた。


1911年、ボカ地区で天長節奉祝会e0101447_2382484.jpg
* 1911年11月3日、ブエノスアイレス市ボカ地区において在留邦人の天長節奉祝会。前列左より、小谷初太郎、市川東州、伊東信介、小谷夫人、中村ツタ、岩岡和作、杉本重三郎、小針倉蔵(賀集九平著「アルゼンチン同胞五十年史」より)。鳥取県出身の小谷と熊本県出身の中村は洗染業の草分けである。その後、洗染業は、アルゼンチンにおける邦人の代名詞になるまで発展した。


e0101447_2391782.jpg大正会の創立祝賀会
* 1913年正月の大正会創立祝賀会で、中央に古川大斧、前列右端に橋口喜平、後列左端に市川東州がいる(賀集九平著「アルゼンチン同胞五十年史」より)。県人という枠をこえた最初の総合日本人団体である大正会は1912年の年の瀬に誕生した。その創立祝賀会はイトゥサインゴー街の小谷初太郎の裏庭で開催され、秋田県出身の市川が会長になった。主に労働者によって組織されていた。



e0101447_2443413.jpg在亜日本人会創立
* 1917年10月31日、フェニックス・ホテル(カルロス・ペレグリーニ街800番台)のサロンにおいて開かれた在亜日本人会の創立祝賀会の光景。同会は在亜日本人青年会を再編成したものだった。在亜日本人青年会は、宮城県出身の大宮司善右衛門を中心に1916年8月に設立された。大正会が労働者によって組織されたのに対して、在亜日本人青年会はインテリ青年たちによって作られた。


在亜日本人会会館
* 1929年に完成した在亜日本人会会館の正面 (在亜日本人会資料)。
e0101447_2551137.jpg パタゴネス(現フィノキエット)街840番にあった在亜日本人会は長らく日系社会の代表団体だった。
その会館は1961年に現住所のインデペンデンシア大通り732番に移転された。
 パタゴネスの敷地には、現在、在亜日本語教育連合会(略して教連)がある。





第4章はこちら






   
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by fana_nikkei | 2007-09-27 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史

第4章 
 
カフェー店が工場労働、家庭奉公、カフェー店の従業員などをした初期日本人移民の最初の独立した目立つ職業だった。「一般的にそれまでは、バラッカスのローチャ鉄工所で、金鎚で叩いて銹を落とす仕事を真黒になってやるほかなかった。貝原さんはカフェー店を経営していたので,ブラジルから来た我々にとってそこで働けるので助かった」,と言うのは,1916年に転住してきた佐賀県出身の井上哲行で,彼はのちエントレリオ州でカフェー店の持主になった。
 日本人経営のカフェー店の始まりは1912年であるが、その2年後、鹿児島出身の蒲池正登(長之助を改名)と佐賀出身の貝原熊蔵、平井勝次ら従兄弟が共営で経営したカフェー東京が永続した最初の店だった。
 普通,最初のカフェ店経営者は、まずカフェ・パウリスタの下働き,皿洗いから始まり、のち給仕として働いたが、このコーヒー・チェーン店は全国に支店を持ち,パトロンは日本人に好意を持つブラジル人だった。
 カフェ店と並行して日本人に人気のある職業は洗濯店で,それは次第に日本人の代名詞として使われるほど増え,20世紀終りまでつづいた。記録によると最初の洗濯業者は1912年に始めた鳥取出身の小谷初太郎と熊本出身の中村ツタだった。洗染店という名前だったが最初は染物をする業者は少なく,文字通り洗濯とアイロンをする手仕事で,それは次第に機械化されるまでつづいた。まとまった資金なしで,言葉が不自由でも出来る仕事で,日本人の勤勉,手先の器用さに適した職業だった。日本の大学で教えている日系二世の比嘉マルセロ教授によると,家庭奉公の日本人によって作り上げられた清潔好き、礼儀正しさ,勤勉などが,とくに日本人の洗濯店が受け入れられることに大きく影響したという。こうして国民性に適した職業柄全国に広がり,数において増大したが,狭い地域における過当競争から日本人間で、またアルゼンチン同業者との間で,少なからず紛争が起きた。こうした業者の増加は、これまで裕福な階級向けであった職業を大衆化するまでに押し広げた。


e0101447_9135187.jpg ブエノス・  アイレス進出
* 1912年にブラジルに渡った貝原熊蔵らは、サンタ・フェ市でカフェ店を成功させた最初の日本人で、1916年にブエノスアイレスに移り、兄の儀七とカフェ店を開いた。1919年新年号のブエノスアイレス週報に載った広告に見られるように、コーヒー豆のブラジルからの直輸入、「東京」ブランドのお茶も扱っていた。


e0101447_927842.jpg 貝原兄弟の
 「カフェ東京」

* 佐賀県出身の貝原熊蔵・儀七兄弟は、裁判所前のラバジェ街1388番というブエノスアイレス市の中心地にカフェ店を構えた。その後、同市バルトロメー・ミートレ街394番にも店舗を開いた。熊蔵は、ブラジル人のアルベス・デ・リマが経営するパウリスタカフェ・チエーン店のコルドバ支店で働き、その職を覚えたのだった。


e0101447_933773.jpg日本人カフェ店の広告
* 亜国時事1924年7月特別号に掲載された日本人カフェ店の広告。一方は、七草木万之丞と酒井和一が共営する「カフェ・ハポネス」(ハポネスとは日本人の意)。七草木万之丞は福島県出身でブラジルから、酒井和一は佐賀県出身でペルーから、両者とも1911に来亜した。他方は、「カフェ・京都」で、2ブロックほど離れていた。共営者の川床金兵衛、慶吉、窪貞蔵は広島県出身で1915年に来亜した。


e0101447_1053023.jpg黒川兄弟の「カフェ薩摩」
* 鹿児島県出身の黒川禎助と吉森が経営する「カフェ薩摩」はブエノスアイレス中心地、レコンキスタ通りとコリエンテス通りの交差点にあった。禎助は1911年にペルーから転住し、吉森は1915年に来亜した。写真は1934年出版された佐藤四郎著「在亜同胞活動状況写真帖」による。


e0101447_1082155.jpg田上熊吉の「グラン・カフェ・ニポン」
* アルゼンチン第二の都市、サンタ・フェ州ロサリオ市の中央広場前にあった「グラン・カフェ・ニポン」の写真(亜国時事1924年7月9日号に掲載)。田上は1897年、16歳でアメリカに渡り、十年間にわたってコックの修行をした経験があった。このカフェ店は1922年に竹内重吉と共営で開かれ、竹内はその後独立した。


e0101447_10104569.jpg竹内のカフェ
* ロサリオ市の中心街サン・マルティンにあったカフェ店。竹内は、鹿児島県出身で、ブラジルから1912年に転住したのち、ブエノスアイレス州南部にあるバイア・ブランカ市のカフェ・パウリスタ支店に勤めた。ロサリオ市では数軒の店舗を経営し、商売敵の蒲地正登と激しい競争をくりひろげた。


e0101447_10165342.jpg 蒲地のカフェ
*ロサリオ市で蒲地正登が経営する数軒のカフェ店の一つはサルミエント街にあった。広い店舗の奥では日本や中国の商品も販売し、店の前ではボンボン(チョコレート菓子)を販売していた。鹿児島県出身の蒲地は1908年笠戸丸でブラジルに移民として渡航した。蒲地と竹内との競争は、一方のカフェ店で働いた従業員は他方では働けないというほど激しいものだったという。


e0101447_10181063.jpgトゥクマン市ラス・エーラス街
* 1934年出版された佐藤四郎著「在亜同胞活動状況写真帖」にあるトゥクマン市ラス・エーラス街の光景。長い歴史を誇るトゥクマン州の首都トゥクマン市は活気にあふれ、有望視されていた地方都市だった。そこに集った邦人に大きなカフェ店を構えた者がいた。


e0101447_10193771.jpg内野のカフェ
* トゥクマン市ラス・エーラス街にあった内野喜吉の経営するカフェ店の内部。鹿児島県出身の内野は、ペルーから1912年に転住した。その後、カフェ・パウリスタや蒲地のカフェ店で勤めた。石原正一と新沢金兵衛と共同経営で1920年半ば、サンティアゴ・デル・エステーロ州で最初の邦人カフェ店を開いた。


e0101447_10204373.jpg上原清次のカフェ店
* コルドバ市の「カフェ・横浜」の経営者、上原清次は沖縄県出身で、兄の呼び寄せで1927年に入国した。兄の清正はブラジルより密航してきて、湾岸労働やラ・ブランカ冷凍肉工場で働いた後、トゥクマン市のカフェ東京(小牧斉蔵らと共営)、サンタ・フェ市の平井兄弟のカフェ店で職を身につけた。


e0101447_1024238.jpg東京サッカーチーム
* 兄の清正よりコルドバ市のカフェ・横浜を譲ってもらった上原清次は、平井兄弟の下で働いていた頃、「日本人の間では肺病が多かった。それで健康を維持するために早起きして、体を鍛えなければいけないと、フットボール(サッカー)を始めたわけだ。初めての日本人のフットボール・チームだった」と回想している。


e0101447_1025688.jpg日本人
 軽業師一行

* すでに19世紀末には日本人軽業師一行がアルゼンチンの地を踏み定住したという説があるが、この写真は1920年代に有名なサラサーニ座で活躍した曲馬団一行。軽業師のなかに、一行から分かれて各地で興行した者がいたという。(写真はカワシマ・イリス氏提供)


e0101447_10255956.jpg 軽業師の
   その後

* 軽業師は北部のフフイ州に落着き、カフェ店業に従事した。1926年11月25日発行の在亜日本人会会誌「在亜日本人」に、「二ヵ月以前ロサリオ地方よりフフイ市に移住し、同市のカフェー・エスパニャを引き受けて経営し大いに繁盛している」と記されている。写真提供者のカワシマ・イリスはその軽業師の娘である。


e0101447_10271880.jpg小谷初太郎宅
 にて

* 当時、ブエノスアイレス市のバラッカス地区イトゥサインゴー街634番の小谷初太郎宅にて、よく同胞の宴会が開かれた。小谷(床に座っている大人の後ろ)は、笠戸丸が来航する1908年より以前からブラジルに住んでいたわずかな日本人の一人だった。1910年にアルゼンチンに転住し、1918年に帰国した。


e0101447_102829100.jpg 洗濯店の中村ツタ
* ブエノスアイレス週報1919年1月1日号に掲載された中村ツタの写真。「洗濯屋のおツタさん」として有名で、アルゼンチン人からも「ドニャ・ロサ」の名前で愛されていた。彼女は、小谷と同様、アルゼンチンにおける邦人洗濯店の先駆者だった。中村ツタは、笠戸丸移民として兄の半次郎とブラジルに渡り、1909年に兄と共にアルゼンチンに来た。




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帰国した中村ツタ
* カフェ・パウリスタの経営者オクタビアノ・アルベス・デ・リマの家で女中になり、多数のボーイ服やテーブルクロスなどの白物を扱ったのが洗濯業に進んだきっかけだった。その後、フロリーダ繁華街の近く、ラバジェ街418番に店舗を開店したが、1939年、故郷の熊本に帰り、1950年に世を去った。井上菊枝氏が提供した映像は1940年のもの。


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邦人洗濯店の広告
* 1919年新年号に掲載された洗濯店広告。福田亮の「やまと」(その後、広島県出身の瀬尾兄弟が譲り受ける)、藤原辰次郎の「東京」、宮崎常蔵の「横浜」。これらの店舗の場所が近いことに注目していただきたい。すでにブエノスアイレス市に20店をこえる日本人の“洗濯・アイロン掛けのタジェール(工場)”があった。







e0101447_1031090.jpg小波津正秀の
洗濯店

* 洗濯店を経営する小波津正秀。ペルーからアルゼンチンに1909年に転住した叔父、次良に呼び寄せられた。正秀が1919年初頭、わずか13歳でブエノスアイレス港に上陸したとき、叔父は亡くなっていた。沖縄県出身の正秀は、家庭奉公で貯めた金と借金で、同県の玉城次郎と共同経営でブエノスアイレス市内トゥクマン街1508番に洗濯店を設けた。


e0101447_10314615.jpg 東常次郎の
    洗濯店

* 和歌山県出身の東常次郎が経営する「Nueva Nippon」(新日本)洗濯店の正面。東は1918年に着亜した。セルバンテス大劇場前のリベルター街1220番にあった店の写真は佐藤四郎著「在亜同胞活動状況写真帖」(1934年刊行)に載ったもの。


e0101447_10325368.jpg瀬尾兄弟の
洗濯店

* サンタ・フェ大通りに面する福田の店舗を購入した後、瀬尾兄弟は、日本公使館から1ブロックの距離、ラス・エーラス街1987番にも洗濯店を開店した。兄の亀槌は1911年にブラジルから転住し、弟の和太郎を呼び寄せた。和太郎は、染色洗濯同業組合の初代会長を務めるなど、リーダー格だった。


e0101447_10334112.jpg 宮崎惟光の
    洗濯店

* 熊本県出身の宮崎惟光が経営するウルグアイ街1033番にあった「東京」洗濯工場の本店。宮崎は1914年にブラジルから転住してきていた。本店以外に五つの支店も経営し、1920年代初頭にホフマン社のプレス機を導入するなど、洗濯業の機械化の先がけとなった。


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宮崎惟光の第三支店
* ベルグラノ地区メンドーサ街2450番の「東京」第三支店の前景。写真は亜国時事1925新年特別号に掲載されたもの。看板には「洗濯・染色専門」の他に、「日本流の仕事」を強調している。宮崎惟光は洗濯業に従事する前、牧場やカフェ店で働いたりした。











e0101447_10353563.jpg  玉城福棟の
    洗濯店

* 玉城福棟のコルドバ市の洗濯店。沖縄出身の玉城は1918年、日本移民輸送史上で最悪の病死者をだした若狭丸の航海でブラジルに渡航した。家庭奉公やカフェ店で勤務した後、ブエノスアイレス州ローマス・デ・サモーラ市に洗濯店を開き、1926年にコルドバに移った。


e0101447_10363019.jpg楽器琵琶を持参して
* 1922年、崎間麗達(中央に琵琶をもつ)が、兄の麗徳(左)に呼び寄せられて到着したときの写真。沖縄県出身の二人は大きな洗濯店の経営者になり、洗染業界で名の知られたリーダーになった。幾つもの公職につき、1935年に設立された洗濯業経営者組合では日本人経営者の代表を務めた。









e0101447_10372926.jpg多くのアルゼンチン人を雇った
* 戦前の日本人洗濯店は、顧客応対のために多くのアルゼンチン人従業員を雇っていた。下村エドゥアルド氏提供の写真は、ブエノスアイレス市マイプー街856番にあった本出嘉太郎(中央に座っている)の洗濯店と従業員たち。熊本県出身の本出は1917に来亜した。


e0101447_1040613.jpg表彰された
下村

* 熊本出身の下村正雄は病気がちの店主を助けて8年間勤務したため日本人洗染組合から1939年に表彰された。下村(一列目右より4番目)を囲み、斉藤 彦蔵組合長(5°)、土井直太郎(6°)、下村の左が崎間麗徳幹事、宮園新之助とつづく。後列左端が平敷屋昌秀。表彰式は料亭「さつま屋」で行われた。
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by fana_nikkei | 2007-09-26 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史