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by fana_nikkei

アルゼンチン日本人移民史


第4章 
 
カフェー店が工場労働、家庭奉公、カフェー店の従業員などをした初期日本人移民の最初の独立した目立つ職業だった。「一般的にそれまでは、バラッカスのローチャ鉄工所で、金鎚で叩いて銹を落とす仕事を真黒になってやるほかなかった。貝原さんはカフェー店を経営していたので,ブラジルから来た我々にとってそこで働けるので助かった」,と言うのは,1916年に転住してきた佐賀県出身の井上哲行で,彼はのちエントレリオ州でカフェー店の持主になった。
 日本人経営のカフェー店の始まりは1912年であるが、その2年後、鹿児島出身の蒲池正登(長之助を改名)と佐賀出身の貝原熊蔵、平井勝次ら従兄弟が共営で経営したカフェー東京が永続した最初の店だった。
 普通,最初のカフェ店経営者は、まずカフェ・パウリスタの下働き,皿洗いから始まり、のち給仕として働いたが、このコーヒー・チェーン店は全国に支店を持ち,パトロンは日本人に好意を持つブラジル人だった。
 カフェ店と並行して日本人に人気のある職業は洗濯店で,それは次第に日本人の代名詞として使われるほど増え,20世紀終りまでつづいた。記録によると最初の洗濯業者は1912年に始めた鳥取出身の小谷初太郎と熊本出身の中村ツタだった。洗染店という名前だったが最初は染物をする業者は少なく,文字通り洗濯とアイロンをする手仕事で,それは次第に機械化されるまでつづいた。まとまった資金なしで,言葉が不自由でも出来る仕事で,日本人の勤勉,手先の器用さに適した職業だった。日本の大学で教えている日系二世の比嘉マルセロ教授によると,家庭奉公の日本人によって作り上げられた清潔好き、礼儀正しさ,勤勉などが,とくに日本人の洗濯店が受け入れられることに大きく影響したという。こうして国民性に適した職業柄全国に広がり,数において増大したが,狭い地域における過当競争から日本人間で、またアルゼンチン同業者との間で,少なからず紛争が起きた。こうした業者の増加は、これまで裕福な階級向けであった職業を大衆化するまでに押し広げた。


e0101447_9135187.jpg ブエノス・  アイレス進出
* 1912年にブラジルに渡った貝原熊蔵らは、サンタ・フェ市でカフェ店を成功させた最初の日本人で、1916年にブエノスアイレスに移り、兄の儀七とカフェ店を開いた。1919年新年号のブエノスアイレス週報に載った広告に見られるように、コーヒー豆のブラジルからの直輸入、「東京」ブランドのお茶も扱っていた。


e0101447_927842.jpg 貝原兄弟の
 「カフェ東京」

* 佐賀県出身の貝原熊蔵・儀七兄弟は、裁判所前のラバジェ街1388番というブエノスアイレス市の中心地にカフェ店を構えた。その後、同市バルトロメー・ミートレ街394番にも店舗を開いた。熊蔵は、ブラジル人のアルベス・デ・リマが経営するパウリスタカフェ・チエーン店のコルドバ支店で働き、その職を覚えたのだった。


e0101447_933773.jpg日本人カフェ店の広告
* 亜国時事1924年7月特別号に掲載された日本人カフェ店の広告。一方は、七草木万之丞と酒井和一が共営する「カフェ・ハポネス」(ハポネスとは日本人の意)。七草木万之丞は福島県出身でブラジルから、酒井和一は佐賀県出身でペルーから、両者とも1911に来亜した。他方は、「カフェ・京都」で、2ブロックほど離れていた。共営者の川床金兵衛、慶吉、窪貞蔵は広島県出身で1915年に来亜した。


e0101447_1053023.jpg黒川兄弟の「カフェ薩摩」
* 鹿児島県出身の黒川禎助と吉森が経営する「カフェ薩摩」はブエノスアイレス中心地、レコンキスタ通りとコリエンテス通りの交差点にあった。禎助は1911年にペルーから転住し、吉森は1915年に来亜した。写真は1934年出版された佐藤四郎著「在亜同胞活動状況写真帖」による。


e0101447_1082155.jpg田上熊吉の「グラン・カフェ・ニポン」
* アルゼンチン第二の都市、サンタ・フェ州ロサリオ市の中央広場前にあった「グラン・カフェ・ニポン」の写真(亜国時事1924年7月9日号に掲載)。田上は1897年、16歳でアメリカに渡り、十年間にわたってコックの修行をした経験があった。このカフェ店は1922年に竹内重吉と共営で開かれ、竹内はその後独立した。


e0101447_10104569.jpg竹内のカフェ
* ロサリオ市の中心街サン・マルティンにあったカフェ店。竹内は、鹿児島県出身で、ブラジルから1912年に転住したのち、ブエノスアイレス州南部にあるバイア・ブランカ市のカフェ・パウリスタ支店に勤めた。ロサリオ市では数軒の店舗を経営し、商売敵の蒲地正登と激しい競争をくりひろげた。


e0101447_10165342.jpg 蒲地のカフェ
*ロサリオ市で蒲地正登が経営する数軒のカフェ店の一つはサルミエント街にあった。広い店舗の奥では日本や中国の商品も販売し、店の前ではボンボン(チョコレート菓子)を販売していた。鹿児島県出身の蒲地は1908年笠戸丸でブラジルに移民として渡航した。蒲地と竹内との競争は、一方のカフェ店で働いた従業員は他方では働けないというほど激しいものだったという。


e0101447_10181063.jpgトゥクマン市ラス・エーラス街
* 1934年出版された佐藤四郎著「在亜同胞活動状況写真帖」にあるトゥクマン市ラス・エーラス街の光景。長い歴史を誇るトゥクマン州の首都トゥクマン市は活気にあふれ、有望視されていた地方都市だった。そこに集った邦人に大きなカフェ店を構えた者がいた。


e0101447_10193771.jpg内野のカフェ
* トゥクマン市ラス・エーラス街にあった内野喜吉の経営するカフェ店の内部。鹿児島県出身の内野は、ペルーから1912年に転住した。その後、カフェ・パウリスタや蒲地のカフェ店で勤めた。石原正一と新沢金兵衛と共同経営で1920年半ば、サンティアゴ・デル・エステーロ州で最初の邦人カフェ店を開いた。


e0101447_10204373.jpg上原清次のカフェ店
* コルドバ市の「カフェ・横浜」の経営者、上原清次は沖縄県出身で、兄の呼び寄せで1927年に入国した。兄の清正はブラジルより密航してきて、湾岸労働やラ・ブランカ冷凍肉工場で働いた後、トゥクマン市のカフェ東京(小牧斉蔵らと共営)、サンタ・フェ市の平井兄弟のカフェ店で職を身につけた。


e0101447_1024238.jpg東京サッカーチーム
* 兄の清正よりコルドバ市のカフェ・横浜を譲ってもらった上原清次は、平井兄弟の下で働いていた頃、「日本人の間では肺病が多かった。それで健康を維持するために早起きして、体を鍛えなければいけないと、フットボール(サッカー)を始めたわけだ。初めての日本人のフットボール・チームだった」と回想している。


e0101447_1025688.jpg日本人
 軽業師一行

* すでに19世紀末には日本人軽業師一行がアルゼンチンの地を踏み定住したという説があるが、この写真は1920年代に有名なサラサーニ座で活躍した曲馬団一行。軽業師のなかに、一行から分かれて各地で興行した者がいたという。(写真はカワシマ・イリス氏提供)


e0101447_10255956.jpg 軽業師の
   その後

* 軽業師は北部のフフイ州に落着き、カフェ店業に従事した。1926年11月25日発行の在亜日本人会会誌「在亜日本人」に、「二ヵ月以前ロサリオ地方よりフフイ市に移住し、同市のカフェー・エスパニャを引き受けて経営し大いに繁盛している」と記されている。写真提供者のカワシマ・イリスはその軽業師の娘である。


e0101447_10271880.jpg小谷初太郎宅
 にて

* 当時、ブエノスアイレス市のバラッカス地区イトゥサインゴー街634番の小谷初太郎宅にて、よく同胞の宴会が開かれた。小谷(床に座っている大人の後ろ)は、笠戸丸が来航する1908年より以前からブラジルに住んでいたわずかな日本人の一人だった。1910年にアルゼンチンに転住し、1918年に帰国した。


e0101447_102829100.jpg 洗濯店の中村ツタ
* ブエノスアイレス週報1919年1月1日号に掲載された中村ツタの写真。「洗濯屋のおツタさん」として有名で、アルゼンチン人からも「ドニャ・ロサ」の名前で愛されていた。彼女は、小谷と同様、アルゼンチンにおける邦人洗濯店の先駆者だった。中村ツタは、笠戸丸移民として兄の半次郎とブラジルに渡り、1909年に兄と共にアルゼンチンに来た。




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帰国した中村ツタ
* カフェ・パウリスタの経営者オクタビアノ・アルベス・デ・リマの家で女中になり、多数のボーイ服やテーブルクロスなどの白物を扱ったのが洗濯業に進んだきっかけだった。その後、フロリーダ繁華街の近く、ラバジェ街418番に店舗を開店したが、1939年、故郷の熊本に帰り、1950年に世を去った。井上菊枝氏が提供した映像は1940年のもの。


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邦人洗濯店の広告
* 1919年新年号に掲載された洗濯店広告。福田亮の「やまと」(その後、広島県出身の瀬尾兄弟が譲り受ける)、藤原辰次郎の「東京」、宮崎常蔵の「横浜」。これらの店舗の場所が近いことに注目していただきたい。すでにブエノスアイレス市に20店をこえる日本人の“洗濯・アイロン掛けのタジェール(工場)”があった。







e0101447_1031090.jpg小波津正秀の
洗濯店

* 洗濯店を経営する小波津正秀。ペルーからアルゼンチンに1909年に転住した叔父、次良に呼び寄せられた。正秀が1919年初頭、わずか13歳でブエノスアイレス港に上陸したとき、叔父は亡くなっていた。沖縄県出身の正秀は、家庭奉公で貯めた金と借金で、同県の玉城次郎と共同経営でブエノスアイレス市内トゥクマン街1508番に洗濯店を設けた。


e0101447_10314615.jpg 東常次郎の
    洗濯店

* 和歌山県出身の東常次郎が経営する「Nueva Nippon」(新日本)洗濯店の正面。東は1918年に着亜した。セルバンテス大劇場前のリベルター街1220番にあった店の写真は佐藤四郎著「在亜同胞活動状況写真帖」(1934年刊行)に載ったもの。


e0101447_10325368.jpg瀬尾兄弟の
洗濯店

* サンタ・フェ大通りに面する福田の店舗を購入した後、瀬尾兄弟は、日本公使館から1ブロックの距離、ラス・エーラス街1987番にも洗濯店を開店した。兄の亀槌は1911年にブラジルから転住し、弟の和太郎を呼び寄せた。和太郎は、染色洗濯同業組合の初代会長を務めるなど、リーダー格だった。


e0101447_10334112.jpg 宮崎惟光の
    洗濯店

* 熊本県出身の宮崎惟光が経営するウルグアイ街1033番にあった「東京」洗濯工場の本店。宮崎は1914年にブラジルから転住してきていた。本店以外に五つの支店も経営し、1920年代初頭にホフマン社のプレス機を導入するなど、洗濯業の機械化の先がけとなった。


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宮崎惟光の第三支店
* ベルグラノ地区メンドーサ街2450番の「東京」第三支店の前景。写真は亜国時事1925新年特別号に掲載されたもの。看板には「洗濯・染色専門」の他に、「日本流の仕事」を強調している。宮崎惟光は洗濯業に従事する前、牧場やカフェ店で働いたりした。











e0101447_10353563.jpg  玉城福棟の
    洗濯店

* 玉城福棟のコルドバ市の洗濯店。沖縄出身の玉城は1918年、日本移民輸送史上で最悪の病死者をだした若狭丸の航海でブラジルに渡航した。家庭奉公やカフェ店で勤務した後、ブエノスアイレス州ローマス・デ・サモーラ市に洗濯店を開き、1926年にコルドバに移った。


e0101447_10363019.jpg楽器琵琶を持参して
* 1922年、崎間麗達(中央に琵琶をもつ)が、兄の麗徳(左)に呼び寄せられて到着したときの写真。沖縄県出身の二人は大きな洗濯店の経営者になり、洗染業界で名の知られたリーダーになった。幾つもの公職につき、1935年に設立された洗濯業経営者組合では日本人経営者の代表を務めた。









e0101447_10372926.jpg多くのアルゼンチン人を雇った
* 戦前の日本人洗濯店は、顧客応対のために多くのアルゼンチン人従業員を雇っていた。下村エドゥアルド氏提供の写真は、ブエノスアイレス市マイプー街856番にあった本出嘉太郎(中央に座っている)の洗濯店と従業員たち。熊本県出身の本出は1917に来亜した。


e0101447_1040613.jpg表彰された
下村

* 熊本出身の下村正雄は病気がちの店主を助けて8年間勤務したため日本人洗染組合から1939年に表彰された。下村(一列目右より4番目)を囲み、斉藤 彦蔵組合長(5°)、土井直太郎(6°)、下村の左が崎間麗徳幹事、宮園新之助とつづく。後列左端が平敷屋昌秀。表彰式は料亭「さつま屋」で行われた。
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by fana_nikkei | 2007-09-26 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史