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by fana_nikkei

アルゼンチン日本人移民史

第3章 

1914年から1920年代半ばまで、職業では工場労働、家庭奉公が多かった。不安定な時期で日本人は職業を転々としていた。
1920年代中頃をすぎると、洗濯店、フェー店、郊外では野菜,花卉栽培が増加したが、結局これらの職業が戦前の日本人社会で目立つものになった。
 日本人移民が増えはじめた頃,ブエノスアイレスはすでに大都会だった。リアチュエロに近い場末のボカ、バラッカスという限られた界隈のコンベンティ-ジョ(長屋)に住み込み、そこから近くの工場に働きに出た。
 工場労働は友人の紹介,あるいは,自分が歩き回って探した。早いうちに起き、そして工場の前で長い列に加わった。採用の選択は工場の現場監督で、日本人が多くの場合優先的に選ばれた。いつも「今仕事ありませんか?」という文句を繰り返していた。
 「毎日毎日当てどもなく歩き回り,工場の前で施し物を求める乞食のように立ち止った。大きな工場だけでなく、汚れた黒い水のながれるリアチュロ運河近くの工場,プエンテ・アルシ-ナの端にある工場などを歩き回った。夕方になると歩き疲れた足を引きづって,陰鬱な気持になって長屋に戻るのだった」、と1923年に移住した仲宗根文盛は記している。
 家庭奉公が,戦前初期アルゼンチンに来た日本人移民の二番目に多い職業だった。比較的に他の民族社会と異なり,家庭で働いた人は多かった。古川大斧は1904年に農商務省海外実業練習生として来たが、「理由は分からないが、何故か家庭奉公は日本人に取っ付き易い仕事だった」、と1917年に記している。
1920年代に入ると日本人の間で自動車運転手の仕事が流行した。1910年代はまだ日本人運転手は数えるほどしかいなくて、富豪のお抱え運転手が多かったが,1920年代に入るとタクシー運転手が急増した。初期の運転手として,中原栄吉、山口喜代志、秋葉新一、武田敏美などがいた。そのほか徳元佐助、新垣亀が1915年にタクシー業を始めている。徳元はバセーナ製鉄工場社長の運転手として制服、制帽に皮のゲートルをつけて働いていた。1919年1月の「悲劇の一週間」の折、フロントガラスを割られて命の縮む思いをした逸話がある。


e0101447_4415074.jpgアルパルガタス社の全景
* 布靴工場のアルパルガタス(アルゼンチン国立総合資料保存館)。ボカ地区のパトリシオス街700番にあった。19世紀末に設立された英国人経営の工場で、紡績部門と製靴部門があった。近くの長屋に住む多くの日本人女性にとって最初の勤め先になった。夫が仕事を見つけるまで家計を支えた。


アルパルガタス工場の女工たちe0101447_4485857.jpg
* 笠戸丸移民で1908年にブラジルからアルゼンチンに転住した移民たちはすぐこの工場で働いた。経営者から喜ばれ、つねに日本人が働いていたが、第二次世界大戦により一部の人を除いてほとんどの日本人が解雇されてしまった。アルゼンチンの日系人研究者ラウモニエルの研究では1918年から1926年にかけて176人の日本人(95%以上が女性)がアルパルガタス工場で働いていたと推定されている。


e0101447_513599.jpgバセーナ製鉄工場に勤めた
  日本人女性たち

* 1870年に創立された製鉄工場で、コチャバンバ街3001番から3099番あたりにあった。またバラッカス地区のペピリ街とアルコルタ街のかどに作業倉庫をもっていた。1918年に昇降機操作係として就職した本田伊吉によると、この頃、男女あわせて60人から70人ほどの日本人が働いていたというが、1919年のブエノス・アイレス週報に載っている広告には「男女300人の日本人が働いています」「日本人男性及び女性雇い入れます」と記されている。この工場は「悲劇の一週間」と呼ばれる労働紛争の舞台となった。


e0101447_534860.jpgローチャ鉄工場の日本人
* ローチャ街1269番にあったこの鉄工場の正式名は不明だが、工場長を杉原隆次が勤めていたので、日本人たちは「ローチャ鉄工場」とか「杉原鉄工場」と呼んでいた。そこでは馬のクツワや蹄鉄などをクズ鉄から作っていた。杉原は1888年愛知県に生まれ、ベルギーで結婚、1911年にアルゼンチンに来た。その頃、この鉄工場の経営は傾いていたが、杉原の努力により復活した。杉原は後に独立して鉄工場を営んだ。


e0101447_542679.jpg 在亜日本人労働者組合
* 1919年、ローチャ鉄工場を事務所にして、杉原隆治や丸井三次郎を中心に「在亜日本人労働者組合」が設立された。不穏な労働者の動きに先手を打って対応しようとしたのか、1919年にローチャ鉄工場は給料アップと8時間労働の実施を決定した。その後、1921年に在亜日本人会の発展に協力するため解散した。


e0101447_551147.jpgゴウリンスキ工場の広告
* ブエノスアイレス週報の1919年新年号に掲載されたゴウリンスキ工場の広告。同工場は船舶修理などを請負う会社で、他の工場と同様、日本人雇用に関心を示していた。笠戸丸移民で1909年に転住してきた鹿児島県出身の有水藤太郎は、カンカン虫といわれるこの仕事をはじめ、多くの日本人に職を斡旋した。



e0101447_5113288.jpg求職広告
* 1914年5月10日から16日までのラ・ナシオン紙に掲載された日本人の求職広告。慣れない異国にやってきた日本人が家庭奉公の職を求めたのは、衣食住を確保するとともに、言葉や習慣を身につけるためでもあった。日本人の家庭奉公人は、親切かつ清潔で教養があると評判された。








e0101447_801391.jpg 高倉謙運転手
* 1919年初めに来亜した茨城県出身の高倉謙は、家庭奉公をしてから裁判官のお抱え運転手になった(宮地ルミ氏提供)。「家庭奉公は一年半くらいしましたね。だいぶ言葉も分かるようになりました。でもこんな仕事は長くやれません。せいぜい三、四ヵ月くらいがいいとこで、すぐ替りたいんです。当時「家庭奉公やります」と出したら、むこうから迎えに来てくれるほど、仕事はたくさんあったんです」と後年の高倉が語っている。


e0101447_5134997.jpg 運転手の中間武右衛門
* タクシー運転手をする前の中間武右衛門(中間フーリア氏提供)。鹿児島県出身の中間は1920年代半ば、古谷重綱公使つきの運転手をした。
 1910年代末期から運転手として働く日本人が多くなり、1920年に、中原栄吉を会長に在亜日本人自動車運転手協会が設立された。
 中原は1908年ペルーに渡航し、ボリビアをへて1911年にアルゼンチンに来ていた。


運転手協会の機関誌「わだち」e0101447_515055.jpg
* 1922年5月5日号の運転手協会の機関誌「わだち」の表・裏表紙。1928年に運転手協会がキルメス河畔にピクニックに行った時には、数十台の高級大型乗用車がラ・プラタ街道を走り、≪道行く外人すら歩みを止めて次から次へと続く自動車を驚異の眼をもって「オートロ・ハポネス」(またまた日本人だ)と呼んでいた≫という(「わだち」第26号1928年)。


e0101447_812575.jpg2番線の運転手
* 1933年の光景(岩岡リカルド氏提供)。タクシーに転向する前、バス運転手だった岩岡勇(中列左より2人目)。その左は兄の嘉一、左より3人目北岡ゆたか、4人目岩尾パブロ、5人目岩尾浅松、7人目福田学。前列左より2人目藤田正雄。後列左より1人目岩尾フーリオ、2人目増田某。「我々がこの協会なるものを設けてタクシー業の盛んな頃は各ガレージに50台のタクシーに自家用の自動車が5、6台しか見えなかったが、現今ではタクシー5台に自家用が50台もいるので、タクシー同業者をして昔のような景気、また多数の会員が集まることは到底困難であろう」(「わだち」第35号1932年)。


e0101447_8154268.jpgゑひめ屋の広告
* ブエノスアイレス週報1919年各号に掲載されたゑひめ屋の広告。ブラジルから転住してきた愛媛県人の森和太郎が1913年にはじめた。エルナンダリアス街1613番にあった。二階建てで、宿泊だけでなく食事も出していた。1919年の宿泊料は一ヶ月三食付で30ペソという記録が残っている。森和太郎は1926年にゑひめ屋を橋本又市に譲って帰国した。

e0101447_8204362.jpg 南米倶楽部の広告
* 経営者や名前は何度か替わったが、1917年からこの場所に宿屋があった。日本人たちは「パトリシオスの19番」と呼びならわしていた。最初の経営者は鹿児島県出身の山元栄治で「南米倶楽部」という名前だった。下宿業に加えて、料理屋、ビリヤード、日本語書籍の貸出しもしていた。山元は船乗りで1912年にアルゼンチンに上陸した。そのためか、日本人の船員もよく来ていたようである。また仕事斡旋人が出入りしていて工場労働や庭園師などの仕事を見つけることができた。

e0101447_824021.jpg ミカド便利舎の広告
* 1913年にアルゼンチンに来た津曲諦二が1915年に開業し、最初はパトリシオス街474番にあった。下宿業に加えて、雑誌・小説の販売、貸し本、仁丹販売などをしていた。1918年には芝原耕平の経営となり、1919年には「ミカド便利舎」という名前になっている。1919年5月には熊本重老の経営で住所はスアレス街1360番になっていた。







e0101447_8243978.jpg 森川クラブの広告
* 田中乙吉と森川与十郎の共同経営でピエドラス街873番にあった。宿泊に加えて、家庭奉公、植木職、カフェ店、鉄工場、内地農牧場就職を斡旋していた。ここは就職斡旋のほうが中心だったようである。1921年には熊本県出身の松田清市の経営になっている。1922年には「だるま亭」の名前で広告が出ていて、日本料理を出していた。だるま亭はのちにチャカブコ街770番に移転した。

e0101447_8314446.jpg 紀之国屋の広告
* イトゥサインゴー街825番で南四郎が1916年にはじめた。1918年の領事館在留届では十七人がこの住所になっていて、ほとんどが熊本県人と福島県人だった。また紀之国屋はメゾン・サツマ(横浜健吉経営)のバッラカス販売店として輸入醤油を売っていた。
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村上食料品店
* サン・パトリシオ市場のなかのエルナンダリアス街1582番にあった食料雑穀店である。
 経営者の村上清吉・万壽見兄弟は愛媛県出身で、1914年にブラジルに渡り、一年半後にアルゼンチンに転住してきた。1916年の開店で日本人の食料雑貨店の先駆けといえる。






西坂食料雑貨店e0101447_9465738.jpg
* 1922年に開店され、アウストラリア街1101番で西坂貫太が経営していた。アルゼンチンでは1914、15年頃から内職のように味噌や醤油を作って販売する人がいたが、本格的に商った人は福田鶴吉で、これで儲けて日本に帰国した。それを譲り受けたのが西坂貫太である。西坂は熊本県出身で、1914年にペルーに渡り、1918年にアルゼンチンに転住してきた。店の奥には酒・味噌・醤油の醸造所があって、四斗大樽がころがっているという壮観だった。


e0101447_10113953.jpg片山洋服店の広告
* 片山誠意の経営でチャカブコ街763番にあった。片山は岡山県出身で大阪洋服学校を卒業して1916年にアルゼンチンに来た。洋服店で働いたあと1917年に開業した。誠意は、アルゼンチン日系二世の医師の草分けとなったロベルトの父である(亜国事時1925年7月9日)。



e0101447_10155419.jpg山田商会事務所
* リバダビア大通りからラバージェ街1073番に移転したばかりの山田商会事務所(ブエノスアイレス週報1919年新年号)。
 1913年、和歌山県出身の山田惣四郎と今村政五郎兄弟により創業され、日系社会における最長の歴史をもった企業である。初期は貝ボタン、コーヒーカップなどの陶器、飾り物、その他各種日本製雑貨品を輸入し、その後、電球やボタンの製造に力を入れた。


“山田ランプは間違いありません”e0101447_10234527.jpg
* 山田商会が扱った多種多様なランプを紹介する商業用パンフレット(山田ホルへ氏提供)。
その裏面には、「“わけのわからない”ランプは電気の無駄」とし、新しい山田ランプは「世界で一番経済的」と記していた。
さらに、「ブエノスアイレス市役所が山田ランプの耐久性を証明」と付加した。


e0101447_10284598.jpg山田貝ボタンのパンフレット* 山田商会の貝ボタンを紹介するパンフレット(山田ホルへ氏提供)。貝ボタンは明治時代から日本の重要な輸出品で、開店間もない頃から山田商会の中心商品だった。他の日本企業と同様、アルゼンチンの政治変動と経済沈滞の打撃を受けた山田商会は、1999年に約90年にわたる歴史を閉じた。



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アルゼンチン生産のヤマロイド・ボタン
* 第二次大戦後アルゼンチン政府が進めた工業保護政策に沿い、山田商会はパラナー河の貝と輸入原料による貝ボタン、エクアドルから輸入した堅木を使ったナット・ボタンを製造した。さらに、新しい材質、ラクトロイドを製造するために大阪の大日本Dellul社と契約した。これは「ヤマロイド」の名称で登録され、牛乳から取れるアルゼンチン産のカゼインから製造された。








e0101447_2115590.jpg 安東定夫が着亜
* 着亜当時、21歳の安東定夫(「安東定夫のあゆみ」より)。1897年岡山県に生まれた安東は1918年にアルゼンチンに着いた。事業を幅広く多角的に進める大胆さに加え、日系社会の主要団体に貢献した人物だった。



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安東夫妻
* 1926年、安東はイソルダ・ストックと結婚した(「安東定夫のあゆみ」より)。イソルダはアルゼンチンのシルクロ・デ・ラ・プレンサ(新聞界の社交クラブ)創立者の一人でドイツ系富豪の娘だった。二人は正金銀行のパーティで知り合った。二世に育英資金を与えた安東奨学金(のちに財団に格上げ)を設けたことも忘れられない。



e0101447_227845.jpg辻商会の展示場
* 辻商会の輸入陶磁器の展示場(1937年)。左より長男のアルベルト・武一郎、甥の大嶽稔、辻峯雄、辻国男、店員(辻早苗氏提供)。1884年、長野県に生まれた辻才次郎は辻商会を立ち上げ、日本製品の品質とデザインを売り物にして中・上流階級を対象に、欧州の高級陶磁器に対抗しながら地道に販売市場を開拓していった。第二次大戦中はブラックリストに載せられて敵性財産管理委員会の干渉を受けたが、アルゼンチン資本の企業であることが認められて接収をまぬがれた。


1911年、ボカ地区で天長節奉祝会e0101447_2382484.jpg
* 1911年11月3日、ブエノスアイレス市ボカ地区において在留邦人の天長節奉祝会。前列左より、小谷初太郎、市川東州、伊東信介、小谷夫人、中村ツタ、岩岡和作、杉本重三郎、小針倉蔵(賀集九平著「アルゼンチン同胞五十年史」より)。鳥取県出身の小谷と熊本県出身の中村は洗染業の草分けである。その後、洗染業は、アルゼンチンにおける邦人の代名詞になるまで発展した。


e0101447_2391782.jpg大正会の創立祝賀会
* 1913年正月の大正会創立祝賀会で、中央に古川大斧、前列右端に橋口喜平、後列左端に市川東州がいる(賀集九平著「アルゼンチン同胞五十年史」より)。県人という枠をこえた最初の総合日本人団体である大正会は1912年の年の瀬に誕生した。その創立祝賀会はイトゥサインゴー街の小谷初太郎の裏庭で開催され、秋田県出身の市川が会長になった。主に労働者によって組織されていた。



e0101447_2443413.jpg在亜日本人会創立
* 1917年10月31日、フェニックス・ホテル(カルロス・ペレグリーニ街800番台)のサロンにおいて開かれた在亜日本人会の創立祝賀会の光景。同会は在亜日本人青年会を再編成したものだった。在亜日本人青年会は、宮城県出身の大宮司善右衛門を中心に1916年8月に設立された。大正会が労働者によって組織されたのに対して、在亜日本人青年会はインテリ青年たちによって作られた。


在亜日本人会会館
* 1929年に完成した在亜日本人会会館の正面 (在亜日本人会資料)。
e0101447_2551137.jpg パタゴネス(現フィノキエット)街840番にあった在亜日本人会は長らく日系社会の代表団体だった。
その会館は1961年に現住所のインデペンデンシア大通り732番に移転された。
 パタゴネスの敷地には、現在、在亜日本語教育連合会(略して教連)がある。





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by fana_nikkei | 2007-09-27 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史