在アルゼンチン日系団体ホームページ


by fana_nikkei

アルゼンチン日本人移民史

第2章

  日本人移民がアルゼンチンに入ってくる流れは大体、ブラジル、ペルーからの転住者によってつくられたが、これはボリビア、チリ-を経由したものだった。これは戦後も同じように、ボリビア、パラグアイからの転住者の流れがあった。
 すでに1908年の「笠戸丸組」の転住者の中には沖縄県出身者も含まれていた関係から、その年がアルゼンチンにおける沖縄移民元年となっている。
 ブラジルの日本人移民第一航海の「笠戸丸」船上で、アルゼンチンへ行く何人かの人たちが、その国には将来性があるとそそのかしていた。また、入植地を脱走してサンパウロにたどりついた人たちは、先にアルゼンチンへ行った人たちから朗報を受け取り、さらに南へと転住がつづいた。
 「笠戸丸」以後の移民グループも、数においては劣るが、やはり、1910年6月29日着の旅順丸組の転住者もかなりあった。
 それでも、アルゼンチンからサンパウロに戻った人たちも少なくなく、第二航海組の転住者の数は減少した。すでに当時、マットグロッソ州のプエルト・エスペランサから始まるブラジル・ノロエステ鉄道線工事は開始されていて、アルゼンチンにも鉄道工夫募集に来た。
 ペルーに入った日本人移民のアルゼンチン転住者も多かった。ペルー移民は1899年、790人の契約移民が森田移民会社のチャーター船「佐倉丸」で横浜から出港したときにはじまる。男たちは砂糖キビ耕地で働くことになっていた。しかし、多くの人が気候風土、労働条件や食物と馴染めず死亡者が続出した。また、雇主とのトラブルで耕地から逃亡する人たちが相次いだ。
1910年、アンデス横断鉄道國際トンネルが完成すると、太平洋岸ルートで来る移民は、チリのパルパライソ経由でアルゼンチンに入国した。これと同じようにペルーから入国する人たちもチリ経由で入った。パスポートのコントロールも厳しくなく、日本人たちはペルー行きの旅券で何の支障もなくアルゼンチンに入国出来た。
 しかし、快適で滞なく出来るこうした旅行も突然、徒歩で、またはロバに乗って大変苦労する旅行になることもあった。冬期、予告なしに運行中止となる。そこでバルパライソに戻って宿泊するだけの経済的余裕のない日本人移民は、そのまま旅をつづけるほかなかった。  


e0101447_3141100.jpg沖縄県移民の草分け、知念政実
*知念政実(左)と同伴者、やすまさ(右)(「アルゼンチンのうちなーんちゅ80年史」在亜沖縄県人連合会)。沖縄県首里の出身で、同県今帰仁村出身の仲里新忠らと笠戸丸で1908年にブラジルに渡り、同年にアルゼンチンに転住した。


e0101447_322926.jpgロサリオの日本人精糖工場員
* 1910年、サンタ・フェ州、パラナー河沿いのロサリオ市にあった精糖工場で就労していたブラジルからの転住者たち(「在アルゼンチン日系人録」らぷらた報知社)。アルゼンチン公使だった日置益(1910年任命)の報告によると、この精糖工場では常時140人から150人が働いており、雇用者は日本人労働者に満足し、非日系人からの苦情もなかったという。


e0101447_33641.jpgロサリオの沖縄出身移民
* 1910年6月19日、サンタ・フェ州ロサリオ市にて。左より、宮城仁助、比嘉加那、安谷屋与元、仲井間宗昌(らぷらた報知社編「在アルゼンチン日系人録」)。1908年より、隣国のブラジルやペルーなどからの転住者はアルゼンチンにおける日本人人口を加速させて。



e0101447_35796.jpg生まれたばかりの新垣清松(在亜日本人会資料)
* 1910年12月8日、ブエノスアイレス市のボカ地区サンタ・マリア街に生まれた清松は、ブラジル第一回移民780人(779人や781人など人数についてはいくつかの異説がある)を乗せた笠戸丸で渡航した新垣松とヨシの長男だった。











e0101447_353659.jpgフフイ州レデスマでの誕生
* 新垣松とヨシの次男、清善の戸籍抄本の一部。フフイ州のレデスマで生まれたとある。ボリビアとの国境に位置する同州に大勢の日本人が就労に出向いた。経営者は先住民就労者を日本人就労者に替えようとしていた。












e0101447_361234.jpgノロエステ鉄道工事にて
* 1910年、ブラジルのマット・グロッソ州のノロエステ(北西)鉄道工事の現場(松尾カタリーナ氏提供)。この鉄道敷設はポルト・エスペランサから始められ、大勢の工夫を必要とした。サンパウロ方面から工夫を送るよりも、工夫をラ・プラタ河の船にのせてポルト・エスペランサへ送るほうが便利だった。












e0101447_372481.jpgマット・グロッソの“アントニオ”マツオ
*ノロエステ鉄道工事、マット・グロッソ州コルンバにて(1910年)。「鉄道検査官のアントニオ・マツオ」と書かれている(松尾カタリーナ氏提供)。松尾は、1880年に福岡県の農家の長男として生まれ、1903年にイギリス船デュー・オブ・ファイア号でペルーに渡り、サンタ・バルバラ耕地で働いた。



e0101447_317342.jpg開通記念写真
* 1910年、鉄道工事の合間に。機関車の前左より2人目が松尾釼蔵。釼蔵の子供たちエンリケとカタリーナによると、ペルーからチリに渡り、数人の日本人と一緒に船に乗り、マゼラン海峡、ブエノス・アイレスをへてブラジルのサントスにたどり着いた。スペイン語と英語の知識があった松尾は日本人の鉄道工夫団の通訳兼監督に採用されたという。



e0101447_3174015.jpg無名の人々による偉業達成
* ノロエステ線鉄道工事現場で。前列右端が松尾釼蔵、後列左端が又吉全政(松尾カタリーナ氏提供)。松尾釼蔵が後年、子供たちに語ったところによれば、マット・グロッソでは猿の肉や果物を食べていたという。毒のない食料を見つけるために、先住民と一緒にジャングルのなかに食料を探しに行き鳥がついばむ様子を観察したという。



e0101447_3182625.jpgオステンデ工事にも参加
* オステンデ避暑地の工事中、エスタシオン・トウキョウ(東京駅)と呼ばれる場所で資材を降ろしている(松尾カタリーナ氏提供)。当時、二人のベルギー人がブエノスアイレス州の西海岸に高級避暑地をつくろうとしていた。オステンデという名称は、ベルギーの有名な避暑地に由来する。駅の名称からすると、多くの日本人が働いていたにちがいない。



e0101447_319958.jpgこの一枚により無名の人々は歴史に名前を残した
* バルネアリオ・オステンデ(オステンデ避暑地)社が発行した労賃明細書(1915年6月30日までの計算)。それによると松尾釼蔵が日本人労働者の代表で、それ以外に働いていた日本人はアリハシ・ホサ、グンペ・クボテラ、ニシハラ・ズニチ、ゼンペ・ホシタ、オリタ・キエモンである。その後、松尾は、ブエノスアイレス州ヘネラル・ベルグラーノの広大な土地で野菜栽培に従事した。








e0101447_3195473.jpgオステンデの大野与三松
* この勤務証明書から分かるように、大野与三松はオステンデ工事に携わった日本人の一人だった。自然との困難な闘いの後、オステンデの開会式は1913年4月に行われたが、第一次世界大戦の影響か、二人のベルギー人はアルゼンチンを去った。残ったのは埠頭の一部と、八十部屋をもつ「テルマス・ホテル」のみで、その後、何十年間も放置されたままになった。








e0101447_3203484.jpgブラジルの原生林で
* 笠戸丸移民以後も、少なからぬ日本人がブラジルからアルゼンチンに渡ってきた。写真は、1912年に厳島丸で渡航しビリグイ移住地に入った移民。原生林の中で大自然と闘った(貝原政治氏提供)。




e0101447_3214583.jpg原生林で生活を築
*ビリグイ移住地の入植者の一人、貝原儀八は、まず自分の家を建てることからはじめた(貝原政治氏提供)。佐賀県出身の貝原は、26歳で妻と二歳の娘とともにブラジルに渡った。他に佐賀県出身の18家族が一緒だった。



e0101447_3224081.jpgあらゆることに苦労する*水は、生きるうえで不可欠であり、……









e0101447_3232675.jpg自然は最大の味方でもあり最大の敵でもあった……うまく利用できればたくさんの魚をもたらした。しかし、儀八の息子、政治によると、幾年もかけて拓いたコーヒー園が一夜の降霜で全滅したという。







e0101447_324377.jpgブラジルからアルゼンチンへ
* 貝原儀八と二歳半になる息子、政治。1922年、10年間の苦闘の後、貝原たちはアルゼンチンに転住した。カフェ店の草分けだった同姓の従兄弟とおなじく、儀八は邦人2名と共同でエントレ・リオス州コンコルディア市にてカフェ店を開いた。











e0101447_3244133.jpgペルーからアルゼンチンへ
* 1918年に死没した小波津次良の墓。1878年、沖縄県西原に生まれ、盛岡移民会社の厳島丸にて、1908年末にペルーのカヤオ港に着き、カニェテ耕地に入った。彼についてはほとんど知られていない。「あなたを忍んで 妻より」という横文字の献辞がおぼろげにみえる。(「西原町の移民概要」西原町教育委員会編集、2001年発行)










e0101447_3253435.jpg 1919年1月16日に発行された泉川亀千代(17歳)の旅券の一部。
*神谷松に呼び寄せられたとある。亀千代の息子リカルドによると、実際に呼び寄せの手配をしたのは亀千代の叔父の仁要であった。「祖父、亀の弟に当る仁要はすでにアルゼンチンにいて、ラ・ネグラ冷凍工場で働いていた。父を呼び寄せてから、沖縄に帰り、向こうで亡くなった」とリカルドは語る。








e0101447_326444.jpg妻を呼び寄せて
* 泉川亀千代は、まずラ・ネグラ冷凍工場で就労し、「その後、バイア・ブランカ市近くにあるプンタ・アルタでカフェ店を経営していた。そのとき、母のアサを呼んだ。母は中城村出身で旧姓は安里だったが、沖縄最後の王朝、尚家の子孫だった」と、誇らしげにリカルドは語った。










e0101447_3373862.jpg横浜港から世界へ
* 1919年4月4日、安洋丸が横浜港を出る光景(広瀬美恵子氏提供)。同年5月22日にカヤオ港に着いた。







e0101447_3383169.jpg安洋丸の船客たち* 東洋汽船社安洋丸の三等客として困難な旅に備えて(広瀬美恵子氏提供)。









e0101447_341365.jpg甲板を歩いて* 広瀬美恵子氏提供。
















e0101447_3414477.jpg食事の準備を手伝う* 広瀬美恵子氏提供。











e0101447_342201.jpg食事時間* 広瀬美恵子氏提供。










e0101447_3432476.jpg作業または雑談しながら旅がつづく* 広瀬美恵子氏提供。









e0101447_3441850.jpg体を鍛えながら* 広瀬美恵子氏提供。











e0101447_3445280.jpgバルパライソ港* チリのバルパライソ港の全景。多くの日本人がペルーのカヤオ港をへて、アルゼンチンに渡るため、ここを通った(広瀬美恵子氏提供)。



e0101447_352352.jpgアンデス越え
* 1919年の冬初め、広島県出身の広瀬寛治ら一行のアンデス越え。当時、汽車不通のため、移住者は徒歩、ラバにたより、海抜4,200メートルの山脈を越えなければならなかった。






e0101447_3524395.jpg愕然とした
* 三重県出身の服部定雄も1915年に同じ経験をしたが、「ちゃんと切符を売ってくれ、出発になっても何ひとつ言われもしなかったので、まさか途中でストップを食らって、ほうり出されるとは思ってもみなかった。汽車に乗った時は、このまま座っていれば無事メンドーサに着くと信じていた。ロス・アンデスまで来たところで駅員がやって来た。この先、雪で不通、開通の見込みは不明と聞かされ愕然とした」と証言した。

e0101447_354646.jpg寒さ、疲労など耐え忍ぶ
* 寒さ、疲労、飢え、恐ろしさに見舞われた旅人は、アルゼンチン側に渡るため、励まし合い、耐え忍んだ(広瀬美恵子氏提供)。








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by fana_nikkei | 2007-09-28 00:00 |  ●アルゼンチン日本人移民史